アイドルという名の人間
これは、ある日のスペースを聞いてTLなどをみて自分なりに書き起こしたものである。
一概にジャニオタと呼ばれる人々には、様々な種類が存在していると思う。
その中でも、
アイドル
(偶像、徹底して
作り上げられたイメージ)
としての推し
として捉えている人と、
その人を構成する
人間そのものを推している
人とに分かれるのではないかと思う。
前者は、人間が見えすぎることを嫌うため、ドキュメントや、恋愛報道を苦手としているように思う。アイドルだから推しであり、アイドルとしての彼だけを見たがる。
このタイプに名前をつけると、
Type1「推しという夢」
またその中で"イメージ"の型に推しがハマらないと、失望や悲観したりするようなタイプもいる。一部の、夢を見るためだけに推しを使う、推している自分が好きなタイプもここであると思う。
一方後者は、推しの人間の部分を見た瞬間にやはりこの人についてきたのは間違いではなかったと再認識したり、あまりにも本人が見えないタイプのアイドルを推さなかったりする印象である。このタイプは、
Type2「推しという現実」
こっちのタイプは、様々な界隈のオタクができる。ジャニオタの場合、好きになった人間の職業がアイドルであった、ということである。それがバンドであったり、スポーツ選手であったりするのである。
とここまで書いてきたが、実際にこの二つをここまで割り切れるわけではない。ほとんどのオタクが、様々な配分であれど、この二つ、あるいはまた新しいタイプのハイブリッドであるとおもう。
ちなみに私はおそらく後者に寄った人間である。彼の見せてくれる世界も大好きなのでそう言った面では前者とも言える。どちらが推しのためになるとか、どちらの方が長く推せるとか、そんなことはどうでもいいが、アイドルに生きづらさをもたらす原因は、こういったところにあるような気がする。どちらかのファンに向き合おうとして苦しむ人もいる。ある意味では人格が売られているとも取れる、アイドルというイメージの鎖を伴って。
人間自身に商品価値を与え、商品として消費されるアイドルや芸能人という特殊な職業と、それを支えるオタクという名の消費者という"人"と"人"の関係は一体何が正解なのだろうか。
まずそんな職業が現代社会に存在し続けていること自体、とても不思議に思う。無宗教の人間にとってはある意味信仰の対象のようなものにもなりうるあの職業に、"アイドル"という名前をつけた人は、いったいどう捉えていたのだろう。
こんな風に、私はアイドルのことを職業として成立するにはとても危うい存在だと認識している。その上、ジャニーズアイドルは、幼い頃から自らの選択ももちろんあるが、本人の意思とは無関係にアイドルとして大きくなってしまったような人も一定数いると考えられる。アイドル論は人それぞれ世の中に様々あれど、彼らが人間であること、しっかりとした人権を与えられるべきことは、彼らを消費し切らないためにもとても重要なのではないだろうか。